前線を征く

 

  

 

 

 

 

 

にたり、にたり。

 

 

 

 

 

 

________今日このときこの瞬間、私の頬はやはり緩んでいた。

 

 

 

 

とはいえなかなか実感が無いものだな

 

 

 

独り言ともつかぬ声を吐き出しながら、しかしながら腹の奥では何をすべきか分かっているような……

 

 


 

 

 

……受話器を置き、小鳥の音がまだやかましい時間にも関わらずかかってきた電話の内容を、目を擦る妻にも手短に伝える。

神妙になった妻の顔を余所目に、私は携帯を手に取り、昨年遠方で下宿を始めた息子へと電話を繋げるのだった________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今から三十数年も前になるだろうか。

 

 

 

その日は、私が高等学校に入学して丁度ひと月が経った頃だった。

学校から帰って風呂も上がり、部屋で友人から借りてきた小説を開いた時のことだった。

 

何やら下の階の落ち着きが無い。

と、様子を見に行くまでもなく私を呼びにきた母の、いつになく弱々しい声が戸の向こうから聞こえる。

 

 

何かを察するような表情で戸を開けた私に、母は一瞬口ごもりながら、その重い口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

父方の祖父が逝ったそうだ。

 

 

 

79歳だった。

 

「ちょっと書斎に」と声をかけ、階段を上っていったのが祖母との最後のやりとりだったらしい。

夕飯ができたと呼ぶ声に全く返事がないので様子を見に行ったところ、椅子に腰掛けたまま力無く俯く祖父がいたという。

生前にはこれといった持病もなく、老衰で穏やかに迎えた最期だったようだ。

 

 

 

 

 

大戦の時代を生き抜き、贅沢なことや派手なことをあまり好まなかった祖父の性格を考えてだろうか、近い親戚だけが集まって葬式は小さく済ませてしまった。

 

 

 

このとき、誰がどんな顔をしていただろうか。

 

 

 

祖母や叔母たちは涙こそ堪えているものの、鳥の羽がそっと触れただけでも崩れてしまうような、そんな状態に見えた。

 

 

他の親戚たちも皆、血の気の無い顔持ちのまま、下のほうを向いていたのが記憶にある。

 

 


 

 

しかしながら、そこでの父の顔だけは、どうしても思い出せないのだ。

 

私の頭にかすかに残っているのは、少し俯いた背広上下の背中だけなのだ。

 

 

 小刻みに震えているかのようにも見えた。

 

 

その背中は、事前の予兆も無く親を失った衝撃で悲嘆に暮れているような、そんな背中に見えなくもなかった。

 

 

 

 

だが、私にはどうにも、何やら別の感情が見えたような気がしてならない。

 

大切なものを噛み締めて、腹を据えるような、そんな背中に……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

梅雨になり、その日もまた天気が不安定な中、近い親戚たちが祖母のもとに再度集まった。

 

その日は納骨を行うため、祖父母宅から鉄道で片道1時間ほどの寺まで足を運んだのだった。

 

 

いつ終わるとも知れない念仏を聞きながら、ここでも私は周囲を見渡す。

 

 

 

やはり祖母は、この前と同じく、今にも少しの刺激で陥落してしまいそうな面持ちをしている。

 

あのひとには散々迷惑かけられたんよ

 

寺に来る途中でこう溢していた祖母だが、今日が終われば、50年以上連れ添った伴侶が自分の側からいなくなってしまうのだ。ひとつひとつ心に浮かび上がってくるものを丹念に振り返りながら、やっと搾り出したのだろう。

 

淡々とした住職の声が響く今もまだ、つのる思いが次々と湧いてきてしまって、動揺をまったく隠しきれていない。

 

 

 

 

哀切な祖母から目を離した私は、すぐ真横で正座する父の顔色を伺った。

 

 

やはり、と言ってもいいのだろうか。

 

 

半ば意外だが予想通りとも言える表情だった。

葬式の時もこんな顔をしていたのだろうか。

 

 

 

 

このときの父の目には、涙の兆候らしきものなど、一切見えなかった。

 

 

 

何かを固く決心するような、そんな真っ直ぐで澄みきった眼をしていたのだ。

 

 

 

 

 

しかし一方で、父の口元には、ほんの少しではあるのだが、緩みのようなものが確かに感じられたのだ。

 

と、ここで、私と両親を挟んで座る妹もこの父の表情に気づいたらしく、何やらあちらも父のほうを覗いているようだ。

 

 

にたり、にたりと何かが腑に落ちて可笑しく思っているのか、それでいて何かを噛み締めつつ、強い思いを抱いているような……

 

 

反抗期もまだ遠い少女の目には不審に映ったらしい。

妹は訝しげな顔をしてすぐに目線を戻してしまったが、私にしてみれば、そのときの父ほど、脳裏に深く刻まれている印象的な顔はない。

 

 

 

 

寺からの帰り道、私は誰かと何かを話すわけでもなく歩を進める。

 

孫として祖父を喜ばせることができただろうか、祖母は大丈夫だろうか、すっかりタイミングを逃した昼食はどうするのか、父の真意は何なのだろうか……

 

私はひとり悶々としながらまた一歩足を踏み出す。

 

雨はすっかり止んで、曇の隙から光の筋まで差し込んでいる。

 

 

 

 

 

 

不意のことだった。

 

 

横を歩く父の口が一度だけ解けた。

 

 

 

 

前を見たまま呟くように、しかしながら私の耳には届くように

 

 

 

 

 

 

”順番どおり、か  確かにな”

 

 

 

 

 

 

と言ったのがはっきりと聞き取れた。

 

しっかりとは見えなかった。

だが、やはりこのときも、戦線の最前を闊歩する旗手のような、いつ凶弾に斃れるかとも知れぬ場に立たされたような、そんな覚悟と自恃に満ちた眼だったに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____あんな顔を浮かべずにはいられない理由も、今改めてよく理解できる。

 

 

……繋がった。

電話越しでは、息子に私の顔を見せてやれないのが残念だ。

 

母が急に寄越してきた電話の内容を息子にも伝える。一寸間があって、昼前の急行さえ捕まえられれば夕暮れ前にはこちらに着くとの返事が聞こえた。

 

 

さあ、旗を地に付けてはならないぞ。

 

新兵の帰りを待つ間、順番通りならば私が再び拾い上げるべき旗を、まだ武者震いの止まらないこの手で、固く固く、握りしめておくことにしよう。