【注意】西洋絵画を読み解く ”OPPAI is GOD” の方程式

【はじめに】本質的な内容に関しては本当に大真面目なのですが、本記事には過激(というか今回はモロ)な表現が含まれる可能性があります。どちらかというと、周りに他の人がいない所で読んだ方が適当な言い訳をしなくて済むかもしれません。苦手な方は気を付けながらブラウザバックせず最後まで読みましょう。

 

 

年の瀬も近くなり、肌を刺すような寒さも厳しさつのる今日この頃、意味の分からんこの記事のタイトルに釣られた皆さまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。

どうも、京都大学ポケモンサークルのボブサップこと、UKです。

 

 

いきなりではありますが、みなさまは私が次に掲げます絵画をご存知でしょうか。

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ドラクロワ 『民衆を導く自由の女神』)

 

ほとんどの方が一度は目にしたことでしょう。

19世紀フランスのロマン主義を代表する巨匠、ドラクロワの作品です。

 

まずそもそも、この絵は何の光景を描いたものなのでしょうか?

 

比較的多くの方が「これはフランス革命の一場面を描いたものだ」という誤解をされているように感じますが、この認識は誤りです。

正しくは、1830年の7月革命を題材に描いたものです。

 

この絵画については、情動的で激しい筆致のドラクロワに代表されるロマン主義と、それまで美術アカデミーの中心的立場に鎮座していたアングルに代表される新古典主義との対立軸に注目しても面白いですし、良家出身で物腰柔らかなドラクロワが、作品の中では革命を熱く語り反体制的なテーマを掲げているという、矛盾を孕んだ背景に焦点を当てるのも楽しみ方の一つです。(ドラクロワ本人は暴動に参加していないのにも関わらず、銃を抱えて先陣に立つシルクハットの男として自身をこの作品の中に描くほどです。)

 

しかーーーーし!!!!

この絵をふと見かけて、教科書の片隅にあるのを紹介されて、この記事にさっき貼られた画像を見て、おそらく大半の方がまず目を向けたのは、ある一点に絞られると断言できます。

 

答え合わせしましょうか。

 

そう、おっぱいです。

 

いやはや、これは見事だ。なかなかにご立派。素晴らしいものを持っていらっしゃる。

服からはみ出した生命の神秘を目に焼き付けようと、女子の目を気にしながら世界史の時間に教科書・資料集を熱心に見つめる、若き日の皆さまの情景がありありと目に浮かびます。(男子校????? しりません)

 

しかしまぁ、ここで一つ素朴な疑問が思い浮かぶものです。

 

なんでこの人おっぱい出してんの???

 

マジでなんで????

そう。ここは戦場。野郎たちが群れになって暴動を起こしている所に、クッッソでかい旗を掲げていて、さらには裸足でおっぱいまる出しの女の人が最前線で群衆を率いている。

 

普通にやばくね? しぬやん。

 

ハイ。ですよね。革命の一端を描いたにしては登場人物に違和感がありまくりです。

こんな女の人、戦場にいるわけないじゃないですか。

 

実際そうです。この女の人は存在していません。

 

というのも、彼女の正体は、”マリアンヌ”と呼ばれる女性なのです。

彼女はフランスの自由の象徴であり、フランスからアメリカへ贈られたかの自由の女神のモチーフも、このマリアンヌという架空の人物なワケです。

 

それを知っていると、暴動の様子を描いた絵において、センターポジションを占めながら周囲と比べて光を当てられていて、フランス国旗を高々と掲げているのにも納得がいきます。

 

こうした背景を知ったうえでこの絵を見れば、先ほどのような疑問は生じないでしょう。まどろっこしいことこの上ありません。

 

しかしまあ、現代人の我々が混乱するぐらいなのだから、当時の人もさぞかし混乱したのではないでしょうか。直近の大事件を描いたものなのに虚構が混ぜられ過ぎだ、事実がねじ曲がっているのではないか・・・

 

否ッッ!!

まったくそんなことは無かったものと思われます。むしろこの絵を見た瞬間に「あ、この女の人は実在しない人だな」と、当時であれば、マリアンヌを知らない人ですら気づくことができたでしょう。

 

大変長らくお待たせいたしました。

ここで登場するのが、みんな大好きOPPAIです。

 

おっぱいを丸出しにした女の人が実在するはずがない!!!

 

コレが最大の決め手です。

こうした思考にすぐ至らせるためにも、胸部にも光が当たりやすい構図になっているものと私は思います。

 

でもでも。

なんで「おっぱいを出していたら実在しない」ということになるのでしょう。

 

ここで我々は時代を遡ってみることにします。

 

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ボッティチェリ 『ヴィーナスの誕生』)

 

こちらも有名な作品ですね。ボッティチェリ大先輩の描いた、『ヴィーナスの誕生』です。

 

まぁこちらもこちらで、それは見事なスッポンポンなわけです。ヨーロッパで長らく実権を握ってきた性に厳格なキリスト教勢力の存在もあり、オイオイオイオイという声はすぐにあがりました。

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しかし、当然こんなことでは乳の情熱に駆られた漢たちが屈するはずがありません。

 

「イヴって全裸で登場するじゃないですか。要するに神話の登場人物ってのは裸がスタンダードなわけでして。決してただのエ◯画像じゃないんですよ。そういう風にしか理解ができない感性の問題だと思います」

と、強引ながらも一理ある理屈を押し通して論破し、次から次へと漢たちはそれはそれはご立派な作品を仕上げていきます。

 

同じテーマでも人によっては、わざわざセルライトを描き足したり(ちょっと前までは男女問わず肉付きの良さが人間の美的価値の中でも相当部分を占めていました)、反対に、ちょっと不自然にすら感じてしまうぐらい妙に現実的なガリガリ体型だったりを描いたりもしていて、こういった点に切り込んでいってもヌードというジャンルは面白いのです。

 

やや話がズレてきました。

 

まあ何やかんやあって「神ならおっぱい丸出しでOK🙆‍♀️」という暗黙の了解が広まっていったワケですが、時代が流れるにつれて比較的早い段階から革命的な逆転現象が生じてくるのです。

 

そう。

「おっぱい is GOD」の時代を迎えたのです。

 

「おっぱい丸出しの女の人がいたら、それは神が描かれたものだ」

という原初の状態からはある種倒錯した状態になっていったのです。この流れは非常に長い間継がれていくことになります。

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(バルトロメウス・スパランヘル 『無知に勝利するミネルヴァ』)

 

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(ヴィクトル・カルロヴィッチ・シュテンベル 『イヴ』)

 

さてさて。

こうした流れを踏まえたうえで、こちらの作品も紹介することにします。そろそろ右手がお忙しくなってきた頃合かと存じます紳士の皆様も、どうかご高覧くださいませ。

 

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(ピーテル・パウルルーベンス 『マリー・ド・メディシスの生涯』より 『摂政マリーの至福』)

 

時の大権力者、フランス王妃のマリー・ド・メディシスから依頼を受けたルーベンスが描いた連作の1作品です。

キューピッドらに囲まれ、正義や公平などのシンボルとされる天秤を中央で掲げているのは、マリー本人です。

 

……ん?

待て待て。この人めちゃくちゃおっぱい丸出しじゃないか???

なんと、現実の人(しかも存命中)を描く際、露骨なまでにおっぱいをボロンさせて描いてしまっているのです。

 

 

おっぱいを出すのは神でなければならないのではなかったんじゃ……??

 

 

いえいえ。逆です。

 

 

むしろ、「おっぱいを出しているということは『神』」なのです。

 

 

このマリーは正義の女神に仮託して描かれており、もはや神格化されている状態なのです。もはや神なのだ。権力の限りを尽くすマリー・ド・メディシスはもはや女神の域なのだ。一般人の手など届かぬ、雲の上のお方なのだ。と。

 

こういったケースのように、歴史上の実在する人物がおっぱい丸出しで描かれている場合は、その人物を神格化する意図のもとで描かれていることも多いのです。

 

 

オマケにもう一つ。根強い"OPPAI is GOD"の風潮の中でこんなパターンも出てきます。

 

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ゴヤ 『裸のマハ』)

 

へぇ…… ベッドシーン?かァ〜

なんかあんまり神話っぽくないよなぁ。

 

……

 

………

 

…………エッ もしかして

 

マジで神話じゃない……?

 

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_______ひょっとして、†素人†・・・ってコト!?

 

 

ご名答。

こちら、神話でもなんでもなく、実在する女性を描いたヌード画の先駆けとなったと言われる作品です。それまでは「シンワデスヨ」感を出すためにキューピッドを描くなどするといった工夫も見られたのですが、この作品については小細工一切ナシです。モノホンです。モデルとなった女性については完全に特定できているわけではないのですが、実在の女性の裸体を描いたことに間違いはありません(ある意味間違いではありますが)。依然カトリックの強いスペインでそれが見逃されるはずもなく、ゴヤは宗教裁判にもかけられてしまいました。

この作品と対応する形で『着衣のマハ』という作品もゴヤは描いています。

 

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この『着衣のマハ』と比べて『裸のマハ』は、やや挑発的というか悪戯な表情を浮かべていますし、ベッドもぐちゃぐちゃになっています。

 

この2つの絵の間に、果たしてどんなウッフンアッハンなことがあったのでしょうか。単に裸像を1枚描くだけではなく、連関性のある絵を描くことによって、どストレートなエロスを回避し、オトナ的な重層感を持たせる意図もあったのでしょう。

 

……とまあ、完全な「おっぱいは神」という方程式の構図は少しずつ崩れていくわけですが、それでも、神々の裸像というテーマ自体は今も変わらず人気です。我々が西洋絵画を鑑賞するときも「おっぱいは神」を覚えておくだけで、若干気まずかったアンナ絵やコンナ絵に対する見方を変えることができますし、堂々と胸を張って胸をガン見することができるようになります。

 

これまでは美術館で

 

「オッパイキレイダナ……」

 

だったものを

 

「コレハ、カミガミノヨウスヲエガイタモノナノカ……ナルホドナルホド…………オッパイキレイダナ……」

 

に昇華させることができるのです。恥じらうことはもうありません。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。美術館でおっぱい丸出しの絵画と対峙してもえちえちすぎて混乱するだけ、という事態になると、せっかくの鑑賞の楽しみ倍増チャンスを逃してしまうことになりますし、仮に、分かっているひとと一緒に行ったとしても、この説明を美術館でするのは少し憚られる場合が少なくないことでしょう。本記事を通して、少しでも絵画鑑賞をさらに楽しむための予習ができたらという意図で執筆した次第ですので、参考にしていただけるのであれば、嬉しいことこの上ありません。

 

ではでは、最後に皆さまへ別れのご挨拶を。

 

 

 

 

 

おっぱいは神だーーーーーー!!!!!!!!

 

 

 

参考文献 山田五郎 『知識ゼロからの西洋絵画入門』(幻冬舎