術士と珈琲



ドトンっ カタタ……


「っとっと。手を滑らせるなんて珍しいね、ジュリー。私も取っ手を向けて渡せばよかったよ。」

『……大変申し訳ありません。プロフェッサー、お怪我は?』

「大丈夫さ、中のコーヒーはもう飲んでたし。……アンタも破片に気をつけるんだよ、見た感じどこも割れてないだろうけど。」

『……ご心配のお言葉ありがとうございます。ですが問題ありませんよ、"私"ですので。』

「問題大ありさぁ。万一にでも損傷して、漏れ出た術力をアンタに注いでやるのは誰だと思ってるんだい。ホレ、ゴム手袋。」

『……錬成でお使いにならないのですか?』

「退官しても実験を続けるほど研究馬鹿じゃないよ、私は。デスクの上にあるのだって、ホラ。……アンドリュー・オールトに、ニッキー・ドールマンのやつ。積ん読してた小説どもさ、術書なんか1冊もないよ。」


半分はウソだ。

両脚がいよいよ本格的に動かなくなり、やむなく学院を離れざるを得なかったが、定年退職なんてものはまだ10年以上も先のものだったのだ。ハァ。まだまだこれからと思っていたのに。


「……あと、もう私を"プロフェッサー"なんて呼ぶんじゃないよ。エリカでいいよ。エリカで。」

『……かしこまりました。コーヒーのおかわりもすぐにお作りしますね。』


カップを拾い上げたジュリーが、スタスタとキッチンへ引き返していく。

……ジュリーは本当に聞き分けの良い子だ。理術士失格の私が創り出した、唯一無二の最高傑作だ。



……数年前、同僚の本の虫に勧められてここにある小説どもを買ったは良いものの、いざ手にとるとこの手の本は「読むときの作法」が分からず困ってしまうものだ。

思えば、私は小さい頃から教科書や学問書、術書以外の書物は殆ど読んだことがない。

生まれつき術力のバランスが不安定で、特に脚を動かすのが難しかった私は、小さい頃から勉強に明け暮れ、気付いた時には、自らの脚を治すため、最難関の理術士試験に苦節の末受かったにも関わらず、一攫千金の実務家の道を諦めて、女学院で研究職に就いていた。

友人らは皆んな実務家となってしまい、出会いの機会にも恵まれず、最愛の親も失った私の心を、孤独が食い荒らすのは時間の問題だった。

ひとつだけ、これに対抗する手段があった。錬成だ。脚の不自由もあり、日常生活を送るのにもかなり苦労していた私は、専業のヘルパーとなる存在を自らの手で錬成することにした。

とはいえ、創ろうとしていたのは言ってしまえば人造人間であったため、その錬成は困難を極めた。真の自立式人型錬成物を創ることは、暴走の危険性の観点から厳しく規制されている以上、思考や行動の自由性にある程度の制約を課しておかなければならない。そうした制約を錬成の際に吹き込むのだが、これがまた(少なくとも私にはとびきり)難しい。

余分な感情を抱かせたり、また自ら抱いたりしないため、麗かなメイドのような錬成物を作ろうとするのだが、どうにも制約を上手くかけられず、私の家の外の自由な世界へと離脱したがるおてんば娘たちばかり錬成してしまい、規定に従いやむなく破壊する……といったことの繰り返しであった。

しかし、ジュリーだけは違う。

本当に彼女は私の唯一無二の最高傑作だ。少々強めに「私のもとから離れて行ってはならない」という念を注いだのが功を奏したのだろうか。文句も言わず、私には荷の重いことに関しては一通りテキパキと片付けてくれる。嬉しい誤算と言っても良いのだが、彼女は生身の人間でもそう類を見ないほど私に対して献身的になってくれるうえ、いつも気遣いをしてくれている。



『……コーヒーのおかわり、お待ちしました。』 


ぼんやりとしているうちに、ジュリーのしっとりとしながらもはっきりとした声が私の追想を切り裂いた。


「ん、ありがと。……それにしてもアンタは本当によく働いてくれるね。文句のつけようがないよ。」

『この上なく嬉しいお言葉です。』

ジュリーが少し嬉しげな様子で面食らったようなかわいらしい表情を浮かべる。

『プr……あー、プロ……フェッサーエリカ、随分と険しい顔で考え事をされていたようですが、何か辛いことでもあったんじゃないですか?』

なんだいこの子。たまに思うけど、自分のことは鈍感なくせに私のことに関しては妙に勘が良いね。

「いやなに、昔のことを思い出していただけさ。私は理術士としては失格だからね。錬成した中で余分な情を抱かずにここまで付き合ってくれてるのはアンタだけだよ。私が錬成してきたのはワガママ言う子ばっかりで文字通り手を焼いたもんさ。」

『……プロフェッサーエリカは、よくご自身を理術士失格だとおっしゃいますが、……私はむしろ、そんな"理術士失格"の貴女のほうが良いですよ。あまり気を落とさないでください。私がいるんですから。』

「ハッ、何言ってんだい」

褒められたことへの喜びなのか、歯がゆそうな照れなのか、そんな表情で目を下にそらしながら、しきりにペコペコとお辞儀をしているジュリーを横目に、私はカップを手に取る。

どこも欠けていないと思っていたカップの口元が、小さく欠けているのを気にも留めず、渇いた身にコーヒーを流し込んだ。